法王捕虜及び帰還時代の一致
第6節;韓半島における捕囚時代

韓半島では、蒙古軍が侵入し、高麗は江華島に遷都して抵抗していましたが、1259年になって蒙古に服属することになります。

蒙古は高麗の内政に干渉するのみならず、高麗王は蒙古皇帝の娘を正室に迎え、女婿として蒙古王室の一員とされていました。皇太子は人質として、蒙古の朝廷で生活し、即位後も、たびたび大都におもむかなければならないという状態でした。

このような韓半島の歴史は、西欧キリスト教史以上にイスラエル民族のバビロン捕囚によく似ているといえます。

1368年になって明が興り、元を北方に後退させます。高麗では、親元派と親明派に意見が分かれましたが、親明派の李成桂(イソンゲェ)は、1392年に高麗を倒し、李氏朝鮮王朝を興します。

韓民族は、1259年に蒙古に服属し、それから1356年に、恭愍王が反元運動をするまで、約100年間も属国状態にあり、その後も約30年間は、親元派が残存していました。

イスラエル民族も70年間の捕囚の後、全員が一度に帰還したのではなく、三回に分けてしだいに帰還したのであり、一部は、100年以上もバビロンに滞在していたのです。

このように強国による亡国の悲運のなかからふたたび国家を再建していくという、イスラエル史を反復する歩みが韓半島史にも明瞭に見られるのです。