法王捕虜及び帰還時代の一致
第5節;天皇の権威の圧迫と回復

1392年に南北朝合一がなりますが、そののち足利義満(1358-1408)は、将軍の位を義持にゆずり、公家最高の官位である太政大臣になります。さらに義満は、どこまでも臣下であるにすぎない太上大臣を6ヶ月で辞退し、出家して法皇のようにふるまったり、明に入貢して日本国王の冊封を受けたりします。義満の一連の行動には、天皇の地位をうばおうというもくろみがあったといわれています。

この義満の行動は、西ヨーロッパで、「公会議至上主義」を支持して、法王権をおさえようとした国王達の動きとの間で、並行する面をもっています。

しかし、義満の死亡(1408年)によって、このもくろみは失敗し、その後、永享の乱などがおこり、幕府は、朝廷に綸旨(りんじ)の発給を要請するなど、天皇の権威をかりなければ統治できないことがあきらかになり、しだいに天皇の権威が回復していったといわれています。

今谷明は次のようにいいます。

「この時代は、天皇の権威を圧伏しようとする動きが極限に達した時代であり、また権威をいったんは喪失した天皇が、嘉吉の乱、応仁の乱を境として、調停者としての地位を得て、復活してくる時期である。」
今谷明著『室町の王権』<足利義満の王権簒奪計画>中公新書(1990)

これは前項でのべたような、アヴィニョン捕囚、教会大分裂、そして公会議至上主義の台頭などで、権威を喪失していった法王権が、けっきょく回復していった状況に並行するものがあると思うのです。

現代の皇室のように仏教とは一応切り離された立場では、上記のような内容が大乗仏教史と関係があるとは考えにくいのでありますが、中世においては、天皇の権威と比叡山など仏教の権威が提携して、統治がなされていたと考えられ、このような内容も大乗仏教史の重要な流れと考えられるのであります。