法王捕虜及び帰還時代の一致
第4節;アヴィニョンからの帰還、教会大分裂


1377年、グレゴリー11世の時に法王は、ローマに帰還することになります。
このグレゴリー11世が死亡した後、ローマ市貴族とフランス出身の枢機卿が対立し、それぞれ、ローマとアヴィニョンに自派の法王を立てて争います。
これが1378年から1417年までつづいた、教会大分裂といわれる事態であります。複数の法王が、同時に立つことによって、法王の絶対的権威が大きくゆらぐことになりました。

その後、コンスタンツ公会議が開催され、マルチヌス5世が新たに法王に選出され、教会統一がいちおう達成されましたが、それ以来、公会議こそが教会の最高権威であると主張する公会議至上主義が台頭し、これが法王の権威を圧迫するようになります。

1431年にスイスのバーゼルにおいて公会議が開催されたましたが、公会議至上説をめぐって、会議と法王が対立し、会議が場所を変えながら長くつづきます。
この会議は1449年になって解散し、ローマ教会内に立憲君主体を樹立しようとした反法王側の計画が、挫折することになります。
その結果、1309年いらい失っていた法王専制の機能が回復するようになったといわれています。

ローマ法王は西欧キリスト教の宗教的権威を代表する立場であります。それが権威を失い、俗権に数十年間圧迫されてから、ふたたび回復していったのは、神殿を中心とするユダヤ民族が、邪神を崇拝するようになり、そのため異邦人の虜囚となり、数十年の虜囚生活を経たのち、数度にわたってパレスチナに帰還し、神殿を再建し、再びメシヤを迎える民として復活していったことを反復する史実であります。