法王捕虜及び帰還時代の一致
第3節;日本史における70年捕囚は何か


このようなバビロン捕囚に相当するような、大乗仏教史における史実は、約60年間の吉野朝時代(=南北朝時代)であると思います。

1318年に後醍醐天皇が即位し、1324年に正中の変、1331年に元弘の乱がおこります。後醍醐天皇を中心に、倒幕の企てがなされましたが、そのたびに失敗して、ついに天皇は隠岐に配流となります。

しかし、そののち新田義貞などが倒幕にふみきり、ついに鎌倉幕府は滅び建武の親政となります。

後醍醐天皇は、武家の独立をゆるさず、公家、寺社勢力に対しても強い姿勢で臨み、権力を天皇に集中して、天皇親政がなされることになりました。

しかし、この建武の政府は、足利尊氏の反乱によって、わずか2年あまりで崩壊します。尊氏は後醍醐天皇を譲位させ、持明院統から光明天皇を即位させて幕府を開始します。

後醍醐天皇は京をのがれ、1336年に吉野に入り、光明の皇位を否認して、尊氏打倒を全国によびかけます。それから1392年に南北朝が合一するまでの約60年間を南北朝時代といいます。

この時代は、南北王朝の対立というより、武家による朝廷圧迫の歴史であったと考えます。北朝といっても、それは幕府が擁立したものであり、南朝は吉野にあって、60年のあいだ抵抗を続けたのであります。

これは、フランス王の圧力で、ローマ法王が70年間アビニョンに留まった法王のバビロン捕囚という事件に類似するものであると思います。

イスラエル民族史の場合、70年間の捕囚にあったのは、国王以下のユダの人々であります。それにたいして、キリスト教史の場合は、法王庁であります。法王は、西欧キリスト教を代表する存在です。天皇は日本の国王の立場の存在です。それが60年近く捕囚に似た状態にあったわけです。

どうしてこれが大乗仏教史になるかというと、桓武天皇が平安遷都して比叡山の天台法華宗を公認してから、天皇は比叡山の仏教的権威を守護する国王の立場をとり続けているのであります。仏教教団で勢力をもっていたのは、比叡山ばかりではありませんが、ともかく比叡山は日本仏教を代表する最も権威ある勢力でありました。

このような国王と仏法の一体化の上に旧体制が維持されていたのでありますが、すでに最澄によって立てられた大乗戒壇の理想は失われ、腐敗と堕落の中にあったと考えられます。このような腐敗のゆえに、天皇の権威が揺らいだのではないかと考えるのであります。

太平記の描写するところでは、後醍醐天皇は臨終時に、左の手に『法華経』の五の巻を持ち、右の手には御剣をとられるという姿であったといいます。史実かどうかは分かりませんが、後醍醐天皇も、桓武天皇にならって、『法華経』守護という意識をもっておられたようです。

西ヨーロッパキリスト教のローマ教皇庁が、超国家的な権威をもって各国に臨んでいたのに対して、東アジア仏教は、そのような宗教的権威を確立できませんでした。それが仏教の限界でもありますが、日、韓、中の三国それぞれの各国史において、西ヨーロッパキリスト教史との並行性が見られたのであります。