法王捕虜及び帰還時代の一致
第2節;法王のバビロン捕囚


西欧キリスト教世界において、法王が教権の代表者、皇帝が俗権の代表者ということで、フランス国王は、理念的には、神聖ローマ皇帝に従属し、独立した支配者としての立場はなかったとされます。

ところが十字軍戦争によって、こうした理念を支えていた諸侯、騎士階級が没落し、また、その失敗によって教皇、カトリック教会の権威が失墜すると、それにかわって国王の力が伸張してきます。

フランス王など有力な国王にとって、

「司法、行政および財政に関して普遍的な組織をそなえ、あまつさえ広大な荘園を領有していたカトリック教会の存在が、国家の理想とする主権と自治権の完全な実現にとって、大きな邪魔物となった。」
C.ドウソン、野口啓祐訳『中世のキリスト教と文化』(新泉社1983)

こうした状況のなかで、1303年、アナーニ事件がおこりました。
法王ボニファチウス8世が、フランス王フイリップ4世の法律顧問ノガレに襲撃され、翌年に病死してしまいます。この事件の経過がフランス王に有利にはたらき、法王の権威に打撃を与え、法王のバビロン捕囚に道をひらいたとされています。

そののち、ボルドー大司教から選ばれた法王クレメンス5世はローマを嫌い、1309年以来、アヴィニョンに法王庁をおくようになります。それから1377年、グレゴリー11世の時にローマに帰還するまでの約70年間は、法王庁がアヴィニョンにあり、この時代をローマ法王の捕囚時代といいます。

法王庁がアヴィニョンに移り、そこに長くとどまったことには、種々の理由があったとされていますが、ランケは次のように言っています。

彼(フランス王フィリップ4世)は、ドイツ皇帝よりもさらに一枚上手であった。すなわち法王枢機官等をしてフランス王に都合のよい法王を選挙せしめ、南フランスのアヴィニョンをその行在所に指定した。これによって、フィリップ美王は不意の一撃のもとに法王権に・・・終末を告げしめたとまではいわないが、それに付随していた普遍的権威の理念を蹂躙したのである。
ランケ『世界史概観』鈴木成高、相原信作訳、岩波文庫

こうしたアヴィニョン捕囚を考えてみると、そこでは法王の権威の低下がみられ、そこをフランス王に屈従させられるという事態になったのであります。

この70年間は、ユダヤ民族の70年間バビロン捕囚の期間を反復した時代であると統一原理は説いています。両者を比較するとフランス王が新バビロニア王ということになり、外寇による捕囚ではないので、やや異なるところもありますが、

「教皇がアヴィニョンに滞在したこの70年間は、ユダヤ人がバビロンに70年間幽囚された歴史にちなんで「教皇のバビロン幽囚」と、ペトラルカやヴィラーニによって言われたのである。」
C.ドウソン、野口啓祐訳『中世のキリスト教と文化』(新泉社1983)

このように、ペトラルカやヴィラーニらが、そのように言っていたというのですから、そのように言わしめるような類似する内容が、二つの史実の間にはあったと思われます。