二仏並坐(にぶつびょうざ)
日蓮宗寺院の本尊。中央に南無妙法蓮華経と書かれた宝塔があり、その前に釈迦牟尼仏と多宝如来が並坐しておられる。その前は日蓮上人像。
空中の多宝塔の中に、釈迦牟尼仏と多宝如来が並んで座られます。これを二仏並坐(にぶつびょうざ)といいます。この二仏並坐に対するこれまでの仏教者の理解は、真実からかけ離れていると言わざるを得ません。
二仏並坐の意義については、従来、境智の冥合(きょうちのみょうごう)を表していると言われてきました。
すなわち、多宝如来は、人間の仏性を象徴的にあらわしたもので、これを「境」(きょう)といい、これに対する釈迦牟尼仏は、その境を覚知する知恵の働き「智」をあらわし、二仏並坐は、「仏性を覚知した姿」をあらわしているというのです。われわれ人間が自分の仏性に目覚めた姿をあらわすというのであります。
この解釈は、一応、意味のあることかもわかりません。
しかしながら、二人の仏が並んで座る印象的な姿は、『法華経』を彫刻であらわし、あるいは画像で表そうとするとき、必ず描かれる『法華経』の最も中心的な内容であります。
例えば、敦煌石窟259窟の二仏並坐像です。
このような仏像で、「境」と「智」という抽象的な内容をあらわそうとしたというのは、どうも私には納得できないことであります。
この二仏並坐の意義の研究として、「多寳塔思想の起源」(横超慧日、印度学佛教学研究第二巻第一號)、「多寳塔思想と迦葉佛傳説との交渉」(紀野一義)という論文があります。また、これらの研究をふまえたうえで、日高白象という方は、『久遠の本仏−自我偈随想』を著し二仏並坐の意義を探求しています。
日高白象師は、昭和54年に59歳でなくなっていますが、日蓮宗に属し、実践と学問に偉大な功績をのこされた方ということです。この人は、単に学問的にではなく、非常に信仰的な立場からこの問題を研究しています。
日高師は次のように言います。
「これまで法華教学史上、できあがってしまっている二仏並座の儀相の上に立って釈迦・多宝の二仏を境智の二法に配当したり、法身・応身に配当したりして、種々理屈をこねて来ているようですが、なぜ、二仏並座の儀相が起らなければならなかったのか、多宝塔と多宝如来が裟婆の大地の下より涌出して空中にかからねばならなかったのか、何故お釈迦さまは多宝塔中に入って二仏並坐しなければならなかったのか、本門八品は何故、二仏並座の儀相の中で説かれなければならなかったのか、といったことについてはほとんどかえりみられてはいないようです」
「二仏並座にしても、そこには確かに深遠なる教理はあるはずです。しかし頭で考える教理だけで二仏並座の儀相が成立するはずはない。そこには一般大衆の肌にも感じとれる生々しいものがあったはずであると思うのです」
「古来、法華教学史上の二仏並座は、天台教学においても日蓮教学においても硬直した哲学的思弁の対象にすぎず、いかに仏教思想史上みぞうの儀相を誇っていても、もはやそこには生きた信仰の息吹きはありませんでした。日蓮宗の僧侶の中でも寺院教会の須弥壇上の釈迦・多宝の二仏をみても、あるいは大聖人図顕の大マンダラの中のこの二仏を拝しても、何故ここに二仏並座の儀相があるのか、それは如何なる意義をもっているものであるのか、とたずねる人も稀であり、またみずから大マンダラを拝写するに当っても、二仏並座はただ慣例に従って書きあらわすにすぎないという人々が多いようです」
「二仏並座に対する硬直した観念を払拭し、今こそ釈迦・多宝の二仏が、生き生きとした原初の姿をとりもどさなければなりません。私が二仏並座の素材を地母神の神婚と治癒神に求め、或はシヴァ神の神婚とその復活に求めるのも、実はその試論にすぎません。さらに今後の研究を重ね、思索を積んでゆかなければならないことは申すまでもありませんが、あくまでも私は、二仏並座を固定的観念でなく、苦しみ悶える人間を救う生々しいもの、苦悩する人間をそのまま抱きしめるもの、大地にのたうつ私たちのそばにいて、私たちをその法衣に包むものとして考えてゆきたい、と思うのです」
以上、日高白象著『久遠の本仏−自我偈随想<一>』東方出版(株)、昭和56年
この節において、日高師の著書から引用しつつ、統一原理の立場から、多宝塔、二仏並坐思想を研究していきたいと思います。多宝塔、二仏並坐思想の特徴として、次の4点をあげることができ、これを指針として考察していきます。
1)二仏は並坐するということ。
釈迦牟尼仏と多宝如来は、半坐を分けあって並坐します。何故このようなスタイルであるのか。世の中でこのように並坐する存在は、夫と妻のすがた以外にありふれてみられるものは、ありません。他にどのような存在があるでしょうか。
2)主体格と対象格
『法華経』における釈迦牟尼仏は、多宝如来に対して、主体格であると思われます。例えば、釈迦牟尼仏はその指をのばして、多宝塔の扉をあけるなどの積極的な働きかけをしますが、そのように主体的であります。また並坐してから、説法するのは釈迦牟尼仏だけであります。多宝如来は、妻のような対象格に徹しています。
3)多宝如来は証明者
対象格である多宝如来は、地中から涌出した当初においては、主体格である釈迦牟尼仏を証する使命をもっていました。
4)四肢が痩せ身体は衰え
地中から涌出し、釈迦牟尼仏によって開塔されたばかりの多宝如来は、「四肢が痩せ身体は衰え」た状態にありました。
「かの大宝塔の扉を開くやいなや、かの尊きプラブータ=ラトナ如来(多宝如来)が、あたかも瞑想を終えたかのように、四肢が痩せ身体は衰えていながらも、獅子座に足を組んですわっているのが見えた」
岩波文庫、『法華経』(中)187P
これはもちろん、禅定による衰弱と見ることもできますが、輝くような四肢であったと書くことも出来たはずであり、ことさら衰弱していたとされているのは、別の意味を考えなくてはいけないのであります。そればかりではなく、多宝如来は、地中から出現したのであります。その意味はなんであるのかを考察しなければなりません。
5)地涌菩薩の復活
釈迦牟尼仏と多宝如来の二仏並坐が成就してから、「涌出品」で子女格ともいうべき新しい菩薩たちが地中から出現しています。ここでも地中からというのが問題になります。
以上の5点を指針にして検討していきます。