日蓮上人の路程と使命
第5節;日蓮の救世主待望


日蓮上人には、救世主を待望するという思想はなかったと思われています。日蓮系教団では、どちらかというと、日蓮上人自身が救世主のような存在に思われているようです。しかし、上人の言葉をよくしらべて見ると、そうではないことが分かります。

前ページに述べたような、未来に本門戒壇を建立するという思想も、前述したように、本門戒壇をメシアの形象体とみるならば、メシア待望の運動であることがわかります。

また、曽谷入道許御書には、次のような文が見えます。

「しかるに予、地涌の一分にあらざれども、かねてこの事を知る。ゆえに地涌之大士にさき立ちてほぼ五字を示す。例せば西王母之先相には青鳥、客人の来るには[干鳥]鵲のごとし」

ここでは、日蓮上人は、「地涌之大士」ではなく、「前き立ちて」現れたと言っています。たとえば、青鳥や鵲(カササギ)が前触れとして現れるのと同様であるというのです。
これを、謙譲の心のあらわれ、人々の機根を考えての表現と言ってはいけないと思うのです。あいまいな表現によって後世の人が迷ってはならないはずであり、また上人の性格は、そのような表現を好まれないと思われます。

日蓮上人は自らの立場のなんらかの重大性を感じていたのであります。自らの後からさらに偉大なる人物が来るかもしれないという潜在的な認識が、このような表現をとらせたとおもうのです。

また、次のような遺文があります。

「すでに地涌の上首上行いでさせたまいぬ。結要の大法、また弘まらせたもうべし。日本漢土万国の一切衆生は、金輪王の出現の先兆、優曇華(うどんげ)にあえるなるべし」
『教行証御書』

この遺文を見ると、上行菩薩はすでに出現している、それは金輪王の出現の先兆であると言っているのです。

転輪聖王には、四種あるといわれ、一つを金輪王といい、二を銀輪王、三を銅輪王、四を鉄輪王といいます。そのなかで最高の徳をもった存在が金輪王であります。慈恩大師の「法華玄賛」には、

『金輪ハ風ヲ望デ順化ス、銀輪ハ使ヲ遺シテ方ニ降ス、銅輪ハ威ヲ震テ乃チ服ス、鉄輪ハ戈(ほこ)ヲ奮テ始メテ定ル』

とあり、徳のみで全地を順化する存在とされています。

転輪聖王は、『法華経』では、仏よりも下位の存在であるように書かれ、上行菩薩に対しても低い位置と考えられているようですが、この遺文では、上行菩薩の出現は、金輪王出現の先兆であるというのです。後から出現する金輪王の方が位置的に高い存在と思われる書き方です。

前にあげた青鳥と西王母の関係も同じで、使者である青鳥があらわれて、そののち、主人である西王母が出現するのです。後から来る金輪王は上行菩薩の主人にあたる存在であり、そのような存在は、久遠本仏以外に考えられないことは明らかです。

旧約聖書最後の預言者マラキは、主が来られる前に、預言者エリヤがくるという預言をしました。エリヤという人物は、紀元前850年頃活動した特別預言者で、すでに昇天しています。

「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心ををその子供たちにむけさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」
マラキ書・第4章5〜(「旧約聖書」最後の箇所)

この預言があったために、イスラエル民族は、主が来る前には、エリヤが必ず来臨しなければならないと考えていました。イエスの言葉によれば、イエスが伝道を開始する前に、ヨルダン川で洗礼をさずけていたヨハネが、エリヤの再来であったわけです。(マタイによる福音書11章14節)

さきの『教行証御書』をみると、日蓮のいう上行菩薩とは、主の道を直くするところのエリヤや洗礼ヨハネのような“先駆者”をさしているようにも見受けられます。(この上行菩薩の解釈は、教理編の「キリストの一致」で紹介した上行菩薩の解釈とは意味が異なっています。)

日蓮上人の言うところによれば、上行菩薩の出現を先兆として、主である金輪王が来られるということになります。上行菩薩の主人である金輪王とは、久遠本仏以外の存在ではありえないと思うのです。もっとも、優曇華が単に「希なこと」を意味する語として語られたかも分かりません。上行菩薩の出現に立ち会うのは極めて希有なことなのだと。しかし優曇華の開花には必ず金輪聖王の出現があるです。聖人の言葉は、語った人が明確に自覚しないことを我知らず予言していることもあり得ると思うのです。

経典篇のキリストの一致でも述べたことですが、日蓮上人は、御自分の『法華経』上の使命を、良医病子の譬えを引いて、「遣使還告〔けんしげんごう〕(使いを遣わして還りて告げしむ)」であるとしています。日蓮の使命は「主人の使い」であるというのです。

茂田井教亨師は、『法華経入門』(大蔵出版1976年)において、「遣使還告」について、

「この使いはあくまでも父と子を相いまみえさせるのが役目なんであります。」

とのべていますが、こうした使命は、マラキ書にいう「彼は父の心ををその子供たちにむけさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」というエリヤの役目と同一なのであります。

最後に、金輪王がその一である転輪聖王について、その弥勒との関係について、若干、説明したいことがあります。

弥勒関係の経典では、弥勒仏は転輪聖王が君臨する理想的な世界が成就した時に、そこに下生するとされており、弥勒仏と転輪聖王は、並出することになっています。

転輪聖王と弥勒の関係については、古い経典の記述がいくつかあり(『賢愚経』など)、この2者は、もともと、お釈迦様の弟子のアジタ(Ajita=無勝)とチッサメッティヤ( Tissa Metteya=帝須慈氏)であったとされています。アジタは兄弟子であり、チッサメッティヤは弟弟子であったとされています。

それによれば、兄弟子のアジタは転輪聖王になるという記別(予言)を、お釈迦様から与えられ、チッサメッティヤは当来下生の仏になるという記別を与えられたのであります。

このような経典では、アジタ(Ajita=無勝=阿逸多)は、転輪聖王になるという記別をうけるのでありますが、その同じアジタ(阿逸多)という名前が、『法華経』では、弥勒の名前になっているのであります。

渡辺照宏師も、「しかし、後世の経典のなかにはアジタとマイトレーヤとを同一人物と見ているものが多い。」と、種々の経典をあげています。
〈弥勒経−愛と平和の象徴−(筑摩書房)〉

アジタとチッサメッティヤ(マイトレーヤMaitreya)は兄と弟という関係にありますが、これを統一原理で考えると、人類の真の父母としての救世主(メシヤ)は、父母の立場であり、その父母は、兄のカインと弟のアベルが一体化したときに顕現するようになるのです。

復帰摂理をすすめるために、堕落したアダムを、弟アベルと兄カインという善悪二側面に分立しましたが、カインの立場の人物とアベルの立場の人物がメシヤ降臨時にも出現するようになるので、これを転輪聖王と弥勒の並出というかたちで、表したものと思われます。そのカインとアベルが一体化したときに顕現するメシヤという存在は、もはや「使い」という立場や、子女という立場ではなく「父(父母)」であり、「主人」という立場で来られるのであります。

日蓮上人の「三大秘法禀承事」で、本門戒壇建立の条件として、「王法が仏法に冥し、仏法が王法に合し」と述べられていますが、この王法はカインの立場であり、仏法はアベルの立場であります。また「有徳王」はカインの立場であり、「覚徳比丘」はアベルの立場であります。このようなカインとアベルが一体化するときに、戒壇を建立することが出来るというのであります。本門戒壇とは、メシヤを意味していることはすでに述べてあります。

イエス様の降臨時に、洗礼ヨハネという人物が出現しましたが、ヨハネは、カインの立場であり、イエス様はアベルの立場であります。カインの立場の洗礼ヨハネがイエス様に従順に従うことによって、ユダヤ人全体がイエス様に従う道が開かれるのであります。このようなアベルの立場の人物とカインの立場の人物は、必ず並出するようになるのであります。

『法華経』の良医病子の譬えを見ると、譬えの最後の段階に、「咸使見之」〔げんしけんし〕という語が出てきます。

「すなわちこの薬の色・香・味のよきことを知って、すなわち取ってこれを服するに毒の病はみな愈えたり。その父は、子のことごとく已に差(いゆ)ることを得たりと聞いて、やがてすなわち来り帰って咸(ことごとく)くこれに見えしむ。」

毒の病が癒えるということで、全てが終わるのではなく、そこに父母が帰ってこられ、子女と父母がともに住むという段階を迎えなければならないのであります。そもそも人間の堕落というものは、子女が父母のもとを離れたということを意味していたのです。

そうした父母としてのメシヤの出現を、仏教では、金輪王とか、弥勒仏の下生というかたちで予言したものと思われるのであります。あまり言われませんが、これを法華経的にいうならば、久遠の釈迦牟尼仏の再誕、あるいは二仏並坐の顕現ということになると思われます。

日蓮上人が弥勒の下生という観念を持っていたことを証する遺文も残されています。

「日蓮云く 第五之五百歳殊に閻浮提に広宣流布して□□尽未来際、慈尊出世に至るまで、断絶すべからず。」

日蓮上人は、弥勒慈尊が出世されるまで、『法華経』を広めて断絶させてはならないといっておられるのであります。
これは断簡ではありますが、日蓮上人も弥勒の下生を一つの目標としていることが分かります。