日蓮上人の路程と使命
第3節;日蓮の活動


鎌倉新仏教の最後に現れた人物は日蓮です。日蓮は、安房(千葉県)の清澄寺で出家し、比叡山に学びました。日蓮は先行の諸師よりも、祖師の最澄に忠実で、比叡山仏教の原点であった『法華経』を選びました。しかしその『法華経』も、末法においては、七文字の題目でなければならないとし、その『法華経』の道を害している諸宗をつぎつぎに非難していきました。最初の非難は法然にむけられました。

日蓮の当時、浄土念仏の教えは日本中に広まりをみせていました。日蓮が育った清澄寺でさえ念仏が唱えられていました。比叡山から帰った日蓮は、まず清澄寺で、恩人たちに向かって所信を開陳しましたが、念仏信者の地頭東条氏はこれを聞いて激怒し、日蓮は故郷を追われる身となり、鎌倉に向かいました。

鎌倉で伝道の日々を送るうちに天変地異・飢饉疫病が鎌倉を襲いました。日蓮は経蔵に入り災厄の原因を探求しました。それは、まちがった仏教が国中に広まり「正法」の信仰が失われているからでした。日蓮は『立正安国論』をしたため、前執権、北条時頼に警告しました。

もしあやまちをあらためないならば、国内には反乱がおこり、また他国の侵略をうけるであろうという予言を付け加えました。

まちがった仏法ときめつけられた念仏宗信徒数百人は、松葉谷の日蓮の草庵をおそいました。また彼らは、幕府を動かし、日蓮は伊豆伊東に流されました。

赦免後、日蓮が故郷に帰ると地頭の東条氏は手勢を率いて日蓮を襲い、弟子など数人が討ち死にし、日蓮も額に刀傷をうけました。

まもなく蒙古の国書が鎌倉にとどいて、幕府は動揺しました。日蓮は再び『立正安国論』を執権北条時宗に提出し、また念仏宗の高僧たちに挑戦状を送りました。日蓮は逮捕され、竜ノ口に送られました。

竜ノ口は刑場であります。日蓮はこの時、死が必至であることを自覚しました。しかし斬首してはならぬという命令が竜ノ口にとどけられ、日蓮は佐渡に流されることになります。

日蓮は極寒の佐渡で、墓場のなかにある破れた小屋に捨てられました。日蓮はこのような苦難がつづく中で、『法華経』の経文の予言が自己の身に符合していることに思い至りました。この経典を広めるならば、迫害がおこってくるという『法華経』の予言を体験で読んだのですが、そのような人物は、宝塔中の釈迦・多宝の二仏から『法華経』の弘通を命じられた上行菩薩ではないかという考えがうまれてきました。

鎌倉で内乱がおこり日蓮の予言が的中したこともあって、許されて鎌倉に帰りました。鎌倉に帰ると幕府の実力者平頼綱との論談の機会があたえられました。日蓮は、この時も、『法華経』の信仰を国家として受け入れなければならないと警告したものと思われます。日蓮の警告はきかれませんでした。

三度諌めて聴かれずんば、去るべきのみ。日蓮は身延山に登り、未来のために弟子の教育と文書による指導に専念しました。

まもなく、蒙古が二度にわたって九州をおそいました。しかし、日蓮の勧告が聴かれないまま、蒙古軍は海底に沈んでしまいます。

このような激しい対決の生涯は、日本史上には珍しいことであります。しかし、これに似た人物は、古代イスラエル史に登場しています。それは預言者エリヤです。

イギリスの歴史学者トインビーは、日蓮の印象を次のように語っています。

「日蓮はもっぱら『法華経』をたたえる言葉を唱えた。彼は仏教の伝統的な賢者に似ているというよりも、紀元前九世紀のイスラエルの予言者、エリヤとエリシャに近かった」
トインビー著作集・補2、『人類と母なる大地』�U239頁、社会思想社