日蓮上人の路程と使命
 第2節;鎌倉新仏教の祖師たち


鎌倉新仏教で最初に登場するのは法然(ほうねん)です。法然は比叡山で天台宗を学びましたが、浄土教に開眼し山を下りました。もともと天台宗の修行には、阿弥陀仏を念ずる行法がありました。そして平安時代に極楽浄土をねがう信仰がひろまり、比叡山の源信によって「往生要集」が著されていました。しかし源信はまだ、天台宗の伝統をぬけでることはなかったのです。

平安末、永承7年(西暦1052年)から末法に入ったとされ、人々の不安が高まりました。

法然は、末法に入った今日、念仏こそ時機相応の教えであり、他の行は必要ではない、称名念仏の一行だけで往生できるのだと専修念仏を説きました。法然の仏教が広まってきますと、比叡山や南都興福寺は、これを禁止するように朝廷に訴えました。

ヨーロッパの托鉢修道会の改革者は、ローマ法王によって警戒されながらも、異端ではないと判断されると認可されていきました。同時代の日本に起こった鎌倉新仏教は、ことごとく旧仏教の反感をかい、あるいは迫害されて、新しい宗派になっていきました。

法然の専修念仏を禁遏(きんあつ)するように訴えがなされると、朝廷にも、法然に同情するものもあって、なかなか結論がでませんでしたが、不祥事に端を発して、結局念仏停止の勅宣がくだり、法然と門弟は流罪あるいは死罪になりました。

法然は専修念仏を説きましたが、いっぽうでは比叡山で円戒を学び、廃れていた戒律を復興することもしました。比叡山を下りてから、しばしば戒律の重要性を語り、望む者には戒を授けたということです。

法然とともに流罪になった弟子の中に親鸞がありました。親鸞もまた比叡山に学び修行した人ですが、安心をうることができず、法然をたよってきた人物です。

この親鸞によって、さらに徹底した浄土教が説かれました。法然も称名念仏を説きましたが、まだ自力による念仏でした。親鸞の念仏は自力によってなすのではなく、仏の力によって唱えさせられているのです。何一つ善をなすことのできない罪悪深重の人間こそ仏の救いの対象でした。また親鸞は戒律も捨てて、妻帯しました。

鎌倉新仏教には、浄土の他に禅系統の改革運動がありました。栄西の臨済宗と道元の曹洞宗です。いずれも、比叡山に学んだのち、宋にわたり、中国の禅宗を学んで帰りました。

栄西は、新しい禅によって比叡山仏教を復興しようつとめましたが、比叡山は受け入れませんでした。道元は、釈尊の出家道を理想として、ただひたすら座禅にうちこめと只管打坐(しかんたざ)を説きましたが、比叡山の圧迫をうけました。道元は越前(福井県)に永平寺を開き、座禅と著述に没頭しました。