二仏並坐と久遠本仏
第5節;地涌の菩薩とは何か
ここでは、地涌の菩薩とは何かについて考えます。
地涌の菩薩は、「従地涌出品」第15で大地から涌出します。この菩薩たちは、「見宝塔品」で、二仏並座が成立してから出現するのであり、それまでの菩薩たちとは全く異なると言われるのです。
娑婆世界における『法華経』の弘通を、「地涌の菩薩」以前の、旧知の菩薩たちが志願しましたが、釈迦牟尼仏はこれをすべて制止します。
「やめよ、善男子よ、汝等が、この経を護持することを、もちいず」
『法華経』を命がけで弘通しようという希望なら、立派なことであり、誰が志願しても歓迎すべきことでしょう。それを「もちいず」と仏の方から拒否するのは、異常なことではないでしょうか。
『法華経』の付囑(ふぞく)をうける、すなわち『法華経』を伝授されるということは、単に『法華経』とか、お題目の弘通を命じられるということではなく、久遠本仏の久遠の生命を相続するということであるはずです。それは、釈迦・多宝の二仏によって新生復活した後に始めて可能になることがらなのです。制止の意味はそういうことだと考えます。すなわち、地涌の菩薩とは、釈迦多宝の二仏によって、新生復活させられた人々を意味すると解されるのであります。
『法華経』には、地涌の菩薩の上首として、上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩が登場しています。これらは、二仏すなわち、真の父母様によって新生復活する人々の中で、とくに重要な役割をする人物達であると思われます。例えば、世界の四大宗教の開祖といわれる人は、すでに他界してしまった霊人でありますが、これらの聖賢も同じように、真の父母様によって新生復活しなければならない人々であって、復活して、特別な霊人として、宗教統一のために重要な役割を果たされる筈であります。イエス様、お釈迦様、孔子、マホメットなどが、四菩薩であるということも言えると思います。
(それは、若年の釈迦牟尼仏が、老年で、尊高無比なる上行などの四菩薩などを我が子であると宣言する従地涌出品の逆転の表現によくマッチしています。なお、この四大宗教の開祖の中で、筆頭者はイエス様になります。
さて、「如来神力品」にいたって、上行菩薩を筆頭とする地涌の菩薩に、釈迦牟尼仏が『法華経』を付囑します。日蓮系の仏教では、まさしく日蓮上人が、この上行菩薩であり、その信徒たちは、地涌の菩薩であるという信仰をもっています。
日蓮上人は、多宝塔中の釈迦牟尼仏から、直接に「妙法蓮華経」の五字を伝授されたという信念を語っています。
これまでの探求によると、二仏並坐というのは、たんに経文上のことがらではなく、又、霊山浄土のような霊界のことがらでもなく、お釈迦様が肉身をもった、なまの人間であったように、肉身をもつ父母として出現しなければならないのであります。しかし、日蓮上人は、そのような肉身をもった釈迦・多宝仏から実体として『法華経』の付囑をうけたのではありません。
しかしそうならば、日蓮上人の御自覚を、どのように考えたらよいのか? 私は、その解答として、後にあらわれた、「上行菩薩三現」の説に注目しています。
上行菩薩三現とは、
- 第1回目の上行菩薩の出現は、『法華経』の中での経文上での出現
- 第2回目の上行菩薩の出現は、鎌倉時代の日蓮上人としての出現
- 第3回目は末法大闘諍の時に、すなわち世界的大戦争が起こる時の出現
ものごとが成就するのに、三段階をふんで完成するというのは、よくあることです。統一原理では、これを蘇生、長成、完成の秩序的三段階といいます。
第1回目は、『法華経』の経文上にあらわれた、上行菩薩としてであります。
第2回目は、上行菩薩は具体的に人間として出現していますが、釈迦・多宝の二仏は、霊鷲山におられるか、あるいは、画像として描かれた存在であり、いまだ、その肉身を万人の前に現されておられず、伝授されたのは、七文字のお題目のみであります。
3回目は、世界的大戦争が起こる時代に、「二仏」が真の父母として御出現されるのです。「二仏」によって最初に久遠の生命を伝授されるものたちが、真の意味での地涌の菩薩なのであり、その筆頭が上行菩薩ということになります。
日蓮上人も、御自分が上行菩薩であると断言しているわけではないのです。
「しかるに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをし(知)れるは、彼の菩薩の御計らひかと存して、この二十余年が間これを申す」
新尼御前御返事(身延にて、文永12年、54歳)
この遺文では、日蓮は上行菩薩ではないけれども、と言っております。また、曽谷入道許御書には、次のようにあります。
「しかるに予、地涌の一分に非ざれども、かねてこの事を知る。ゆえに地涌之大士に前き立ちて粗五字を示す。例せば西王母の先相には青鳥、客人の来るには鵲[干鳥]の如し」
ここでは、日蓮上人は、地涌の菩薩の「先駆け」をなすものであると言っておられるのであります。西王母の青鳥、客人のカササギというのは、どちらも前兆、使者というような意味があります。当然、あとから出現される人物が本体ということになります。
日蓮上人が自己の使命をあらわす言葉に、「遣使還告」(けんしげんごう)というのがあります。これは『法華経』の良医病子の譬喩にある言葉です。
良医病子の譬喩をみると、良医にはたくさんの子息があったが、ある時かれらが誤って毒を飲んでしまった。良医がこれを知って良薬を調合して飲ませようとしたが、かれらはこれを飲もうとしません。良医は困って一案を思いつき、旅に出て、外国から使いを遣わして、父が死んだと告げさせます。
病子は父が死んだと聞き、驚き悲しみ反省し、父の残した良薬を服します。そして彼らの毒による病が完治します。子息がすべて良薬を服したことを知った父は帰国し、子息たちの前にその姿を現すというのです。
この譬喩で、父が死んだことを告げる使者の役割が日蓮上人の役割だというのです。茂田井教亨という人は、「法華経入門」の中で次のように説明しています。
おまえの父は亡くなったよと、使いを遣わして告げしめ、・・・・・、使いのおかげで父(如来)と子供(衆生)とがここに相いまみえることができたんです。・・・・日蓮は、日本国の衆生並びに世界の人々のために、佛とまみえさせるというこの・・・使いを自分が果すんだという自覚に立って、鎌倉時代というああいう危機の時代に活動したのでございます。
旧約聖書には、キリストの降臨に先だってエリヤが来るという預言がありましたが、彼は、上述の「使い」と同じように、「父の心を子にむけさせ、子の心を父にむけさせる」使命をもっていたとされます。
見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。
(マラキ書4章5節)
このようなエリヤのような使命こそ日蓮がいう「遣使還告」の使命であり、日蓮上人がその人であるというのは、十分に傾聴にあたいしますが、地涌の菩薩という概念は、それとは少し違っていると思うのです。すなわち、地涌の菩薩とは、釈迦多宝の二仏によって新生復活させられる人々を意味すると解するのであります。