二仏並坐と久遠本仏
第4節;久遠本仏とは何か
第4項;弥勒経典との一致


仏陀の再来の思想は、弥勒下生というかたちで、広く受け入れられています

『弥勒大成仏経』によると、弥勒出現の地として、鶏足山(けいそくさん)という山が関係づけられています。

そのときマイトレーヤ仏陀はこの世界において前身にもしっかりしていた衆生たちと大弟子たちとを連れて″鷲の峰″の麓まで行き、そこから狼跡山(いまの鶏足山)に静かに登り、その山頂に立ち、足の親指で山根を踏みつけると大震動するであろう。山頂に立って両手を山の腹に向け、あたかも転輪聖王が大城門を開くようにするであろう。そのとき梵天王は天香油を持ち、マハーカーシャパ〔摩訶迦葉〕の頭上にふりかけ、大きな打木を叩き、大きな法螺貝を吹くと、マハーカーシャパは滅尽定という深い禅定からさめ、服装をただし、右肩をあらわし、右膝を地面に着け、合掌してシャーキャムニ仏陀の袈裟を捧げてマイトレーヤ仏陀に手渡しこう言うであろう。〈わが大師シャーキャムニ仏陀は入滅にあたって私にこの法衣を委托し、世尊(マイトレーヤ)に奉れ、と申されました〉。
『弥勒大成仏経』渡辺照宏著「弥勒経−愛と平和の象徴−」筑摩書房昭和57年

ここには、弥勒仏が弟子をひきつれて、鶏足山に現れ、山の腹を開き、洞窟で禅定している大迦葉をみせるのであります。この伝承は、すでに、「第3節;二仏並座とは何か」で述べましたように、釈迦牟尼仏が、霊鷲山において地中から出現した多宝塔を開いて多宝仏を大衆にみせるという「見宝塔品」の表現に類似しているのであります。しかしここでは、弥勒出現の山名は「鶏足山」であり、霊鷲山ではありません。

鶏足山の位置はブッダガヤの東南東20マイルにあるGurpa Hillに比定されるといわれています。鈴木中正氏によれば、鶏足山における迦葉・弥勒相逢の伝承よりも古く、霊鷲山におけるその伝承があったということです。
鈴木中正「イラン的信仰と仏教との出会い−弥勒下生信仰の形成−」

出典の「大智度論巻3」によると、

人間の寿命が8万4000歳、身長80尺となったときに、弥勒仏がこの世にあらわれました。仏の身長は160尺、仏の顔は24尺、円満な光は10里に達しました。このとき、衆生は弥勒仏が世のなかにあらわれたのを聞いて、無量のひとびとが、仏のあとにしたがって出家しました。(弥勒仏が)最初に説法されたとき、99億のひとびとがアラカンの道を得、6つの神通がそなわりました。第2回の集会には、96億のひとびとがアラカンの道を得、第3回の集会には93億のひとびとがアラカンの道を得ました。これからあと、数えきれないほど多くのひとびとが救われました。
そのとき、ひとびとは長時間たってのちに、この世を厭うことをさとりました。弥勒仏は、多くのひとびとがこのようであるのを見られて、足の指で、耆闍崛山をたたいて、山を開きました。
するとこのとき、長老の摩訶迦葉の骨だけの身体が、僧伽梨を着てあらわれ出て、弥勒の足に礼拝し、空にのぼって行って、前に述べたような変化を現じました。
三枝充悳訳、大智度論の物語(一)レグルス文庫1973年

耆闍崛山(ぎじゃくっせん)とは、Grdhrakutaの音をそのまま漢字にしたものですが、これを霊鷲山と漢訳したのであります。このように『大智度論』では、迦葉・弥勒相逢の地が鶏足山ではなく、霊鷲山になっているのです。

『大智度論』の、弥勒仏が弟子をひきいてあらわれる山が霊鷲山であり、その山を開いて大迦葉をあらわす光景は、『法華経』の、釈迦牟尼仏が、同じく霊鷲山で多宝塔を開いて多宝仏をあらわす光景によく似ていたのです。

霊鷲山において、弥勒仏が足の指で山腹をたたいて、ミイラ状の大迦葉を出現させたように、釈迦牟尼仏も、同じく霊鷲山において、右の指で地中から涌出した多宝塔の扉を開き、やせ衰えた多宝如来をあらわします。しかし、釈迦牟尼仏と多宝如来が二仏並坐を示したのに対して、弥勒仏と摩訶迦葉との並坐という記述は、示されていません。

キリスト教教理で言うと、イエス様は、全人類の新郎として、来られたお方であります。全人類は、イエス様の新婦にならなければならないのです。とくに、イエス様の再臨を待っているキリスト教会は新婦で象徴されています。

摩訶迦葉は、お釈迦様がなくなられた後の教団を指導して、仏典の結集をした人物であり、さらに彼は、お釈迦様の袈裟を弥勒に伝える使命を帯びて、鶏足山ないし霊鷲山で入定したとされるのです。すなわち、彼は、仏教教団を代表して弥勒仏の来臨を待っている新婦のような役目なのであります。彼は、生前に、お釈迦様と並坐したという伝説まで残しているのです。

このような新婦の使命を完成される方が、真の母となられ、真の父と並坐されるに至るのであります。これについては、すでに、二仏並坐のところで述べています。

弥勒経典の迦葉・弥勒相逢の前段に、三会の説法(竜華三会)というのがあります。三会の説法によっても、不信に陥ろうとする者達が、摩訶迦葉の奇蹟を目の当たりにしてからようやく、信服するようになります。そうすると、迦葉・弥勒相逢という儀相が重要なのであって、竜華三会というのは、前座のようにも思われるのです。とするとこれは、『法華経』の、多宝塔の扉が開かれる前に行われる「三変土田」、分身仏来集というと奇瑞と対応しているように思われます。

このような記述の一致を考えますと、『法華経』がいう、釈迦牟尼仏が弟子をともなって霊鷲山に出ず、という表現は、弥勒仏が弟子をともなって霊鷲山に来られるという弥勒経典の記述と同一の内容をさしていると思われるのです。『法華経』の釈迦牟尼仏と、次の仏である弥勒仏とは、「真の父」という同一の使命をもっておられるのですから、使命の観点から見ると、弥勒仏の出現とは、『法華経』の釈迦牟尼仏の再臨ということと同じなのであります。

ここで、霊鷲山とは聖なる地を象徴していると思うのです。
多くの大乗経典は、耆闍崛山(=霊鷲山)を説法会場として説かれています。この山は、「浄く、けがれがなく、幸福なる徳があり」、「一切の三世〔過去・未来・現在〕の仏たちの住処である」といわれています。
(大智度論巻3、三枝充悳訳)

そのような聖なる地に釈迦牟尼仏(=弥勒仏)が出現されるということを、『如来寿量品』は予告していると考えます。