二仏並坐と久遠本仏
第4節;久遠本仏とは何か
第3項;久遠本仏は再誕するか

『法華経』で最も中心となる章は、「如来寿量品」と言われています。そこでは次のようなことが説かれています。

1).釈迦牟尼仏は久遠の昔に成道し、それいらい、この世に存在しつづけられ様々な方法で救済にあたっておられる。

2).釈迦牟尼仏が入滅を示されたのは、人々が驕恣の心、厭怠の心をいだき、仏に対する難遭の思い、恭敬の心を生じないからである。

3).それゆえ釈迦牟尼仏は方便として入滅し、それによって人々が嘆き悲しみ、反省し、本心が目覚めたときには、彼らの前に姿を現される。


1).「如来寿量品」では、五百塵点劫という途方もない過去が説かれ、釈迦牟尼仏が五百塵点の昔に成道され、それいらい常に人々を救済しつづけておられることが説かれています。

統一原理によれば、神は人間始祖のアダムとエバを造られ、創造理想を実現されようとしましたが、彼らの堕落によって、それを成就することができなかったのであります。

そのため神はもう一度、人間始祖となるべき第二のアダムを送らねばならなくなったのであります。その第二のアダムがイエス様でありました。

アダムもイエス様も、人間始祖(=真の父母)になるために生まれたけれども、一人の人間であり、地上における生は寿命をもっています。しかしその背後には、永存される神さまがおられ、人間始祖(=真の父母)に関する理念(=ロゴス)を創世以前から持ち続けておられます。このような意味でイエス様は、創世以前から存在されたと言いうるのであります。

久遠の昔に成道したという久遠仏は、神様御自身ではなく、神様が創世以前からいだいておられた、人間始祖(=真の父母)に関する創造理想をあらわしていると考えます。神様は人間始祖に関する創造理想を創世のはじめからもっておられたのです。
神様は常に存在しておられ、人間始祖(=真の父母)に関する理想も常に抱懐しておられ、歴史と民族に応じて様々な宗教を興され、その理想を地上に実現するために、渾身の活動を続けておられるのであります。


2).「人々が驕恣(きょうし)の心、厭怠(えんたい)の心をいだき、仏に対する難遭(なんぞう)の思い、恭敬の心を生じないから」釈迦牟尼仏は涅槃しなければならなかったというのは、人々が釈迦牟尼仏を理解しなかったことを意味します。

それ故に釈迦牟尼仏は人々の前から姿を消さねばならなかったというのです。人々が不信した故に、いったんこの世から去られたのであります。

このような事情は、イエス様の十字架の死に通じる点があると思うのです。イエス様はイスラエル民族が不信するようになったたために、みずから十字架におつかりになり、人々の前から肉身を亡くされたのであります。そして40日間の復活の奇蹟によって人々を覚醒させていったのであります。『法華経』は釈迦牟尼仏という名称で語っていますが、イエス様の事情を、(それはすなわち神様の事情でもありますが、)反映したような表現になっているのであります。


3.釈迦牟尼仏は入滅しましたが、人々が反省して本心を取り戻し、仏には遭い難いという思いをおこしたときに、釈迦牟尼仏は、再び現れられるというのです。

『法華経』は次のようにいいます。

「衆はわが滅度を見て、広く舎利を供養し、ことごとくみな、恋慕をいだいて、渇仰の心を生ず。衆生、すでに信伏し、質直にして、こころ柔軟となり、一心に仏を見たてまつらんと欲してみずから身命を惜まざれば、時にわれおよび衆僧は、ともに霊鷲山に出ずるなり」

この経文は、従来の解釈では、釈迦牟尼仏は常に霊鷲山におられ、篤信の者が渇仰する場合は、彼の前にお姿を顕わされるというのです。

釈迦牟尼仏は霊鷲山に常住されておられる。そこに浄土を建立されておられ、その浄土は朽ちない浄土であり、人々が仏に対する渇仰心を生じたときに、彼らの前に出現されるというのであります。

たしかにそのようなことが書かれています。その浄土を霊山浄土といい、篤実な信徒は死後、そこに往生できるということを日蓮上人も述べています。

仏様が浄土におられるというのは、阿弥陀仏の極楽浄土、弥勒菩薩の兜率天、イエス様の楽園という内容と共通した思想であります。前にも述べましたように、統一原理から言えば、それらは一時的な待避所であると考えられます。イエス様の十字架の死によって、やむを得ず、そのような待避所が必要になったのです。『法華経』には「化城宝所の譬え」というのがあります。それらは、化城のようなものであると言えるのです。時が来れば、宝所に向かわねばならないのであります。

弥勒菩薩はやがて兜率天から地上救済のために下生されます。キリスト教においても、楽園のイエス様と聖徒が地上に再臨してくるという預言が聖書に書かれています。

『比丘よ、まさに知るべし、諸仏の出世には値遇すべきこと難し』(『法華経』如来寿量品第十六)と繰り返し説くのは、人々が仏の出世を渇仰すべきことを教えているのです。霊的には、いつでも釈迦牟尼仏に会うことが出来るのであります。このような教戒は、釈迦牟尼仏が肉身再臨しない場合は、無意味であると考えます。

入滅というのは、要するに、お亡くなりになり、身体が灰になってしまうことであります。ところが、それが方便であり、実は入滅していないというのです。それならば釈迦牟尼仏の肉身がもう一度あらわれて入滅していないことを証さなければならないのです。

信仰によって、心眼で霊山浄土の釈迦牟尼仏に遭うということは、篤信者にはいつでも可能であったと考えます。しかし、心眼でしか遭うことができないのであれば、やはり釈迦牟尼仏は入滅して霊人体としておられるのであって、「入滅していない」というのは嘘になります。

「時にわれおよび衆僧は、ともに霊鷲山に出ずるなり」というのは、信仰心のある人が、心眼で釈迦牟尼仏を見るということではなく、霊鷲山に似た聖なる地に、釈迦牟尼仏が弟子をひきつれて、肉身をもって出現されるということでなければならないのです。

「衆生、すでに信伏し、質直にして、こころ柔軟となり」というのは、再臨するためには、人々がある一定の条件を満たす必要があることを意味します。そのような条件を満たした一定の時に釈迦牟尼仏は再来されるのであります。

柔和で質直なる者は仏をみるが、罪の衆生は三宝の名を聞かずというのは、要するに、釈迦牟尼仏が、一人の人間として出現しても、不信の人は、「そうではない」と認識するので、釈迦牟尼仏が同時代に生存していても、それを認めないという状況であると思うのです。