二仏並坐と久遠本仏
第1節;大乗仏教の仏陀とイエス様
主師親の三徳といわれるように、「仏」という存在は、人間の主人、先生、父母である。キリスト教の神も父と呼称されている。人間は、このような人格神の子として、真の家庭を完成し、父母の「真の愛」、「真の生命」、「真の血統」を相続しなければならなかったが、堕落することによって、それをなすことが出来ず、逆に、サタンを中心とする内容を受け継いでしまったのであります。
このサタンを中心とした人間を新生させて、神を中心とした人間に生みかえるために来られるのが、キリスト教のメシアという存在なのであります。
イエス様は、ニコデモに、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章)といわれ、それに対してニコデモは、「人は年をとってからうまれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と質問したという記録があるように、堕落人間を新生させるということが、イエス様が来られた目的であったのです。
ところで、私たち人間が誕生してくるためには、私たちの両親が必ずおられたのであり、父母があって子が生まれるというのは、宇宙の仕組みがそうなっているのであって、あらゆる生き物がそのように存在しているのです。
堕落した人間を神を中心とした人間に新生させるということにも、父母という存在が必要なのであり、キリスト教においては、イエスと聖霊という父母が現れているのです。メシアというお方は父母として出現されなければならないのであります。
『法華経』の内容は、「二仏並坐と久遠本仏」に尽きるといっても過言ではありませんが、この釈迦牟尼仏と多宝如来という二仏ははたしていかなる存在であるのかというところを考察するのが、この章であります。