菩薩の数が多い

菩薩とは、仏になるために修行をしている存在ですから、仏の子であります。「諸の声聞衆は・・・法王の子となり、また、計るべからず」などとありました。

授記に言う、「菩薩の数が多い」、「声聞衆は、・・・計るべからず」などの語は、数多くの仏子が繁殖するということであります。成仏の内容として、必ず「仏子の繁殖」が言われなければならないのであります。

しかし、この菩薩などの仏子の繁殖は仏の教化によって仏弟子が殖えることを言うのでありまして、仏様がお嫁さんを迎えて仏子を生むというふうには考えられていません。

さて、仏教においては、女性は罪障が深く成仏しがたい存在とされ、理想的な仏国土には、女性が存在しないとも説かれています。

『法華経』の中でも、冨楼那(ふるな)への授記のなかで、

「女人なく、一切有情は化生であり、婬欲なし」
といわれ、仏国土には女人がいない、人々は母胎から生まれるのでなく、男女の婬欲は仏国土には存在しない、というのです。

それでは、仏様という存在は、男性ではなく中性であるかというと、立派な男性であるとされています。仏様は、三十二相・八十種好という相好(そうごう)をもっているとされますが、八十種好のなかに「完全な生殖器」をもっておられることが明記されています。

生殖器というのは、男女が愛し合い、子女を繁殖するためにあるわけです。われわれが自然界を観察するならば、あらゆる存在は、男性と女性という対によって存在しています。それゆえ、女性の仏様が存在してもおかしくはないと思われます。

『法華経』の「勧持品」をみると女人の、きょう曇弥と、耶輸陀羅尼が授記を受けています。この二人が成られる仏様は果たして男性なのか、女性なのかということは分かっていません。「提婆達多品」の龍女の成仏をみると、龍女はいったん男子となって、それから仏になっております。

この龍女の成仏をみると、女性はいったん男子に性転換されて、それから男子の仏になる以外にないと考えてしまいますが、『法華経』の歴代の注釈家は、そのように解しなかったということです。

「注釈家達によれば成仏の本質は、女人に即しての成仏、即ち女人即成と見るのであって、男子に生まれ変わって成仏するとは見ない。」
岩波文庫『法華経』下449頁
このように、男子は男性の仏となり、女子は女性の仏となるのであります。そして仏様は、「完全な生殖器」をもっておられるわけでありますから、男性の仏様と女性の仏様の結婚があってもおかしくないのです。

仏教の開祖であるお釈迦様が妻子を捨てて出家され、僧侶の戒律として、性欲は、厳重に禁止されたのですから、仏の結婚などということは、いかに革新的な『法華経』といえども、あからさまに説けなかったわけです。

しかし、大乗仏教がめざしているのは、出家の道ではなく、真理にもとづく在家の生活でありますから、男女は個性完成したうえで結婚して理想的な家庭生活を成就しなければならない筈であります。

こう考えると、あらゆる人間が仏となるといっても、それぞれの人間が、お釈迦様のように出家して、宗教の開祖となり、多くの仏弟子を教化して、仏国土をつくる、という意味ではないのです。

仏の、子女が多数であるという授記の内容は、あらゆる人間が個性完成した立場で、理想的な家庭をつくり、多数の子女をもうけるということでなければならないのです。

このような内容を統一原理では、「子女繁殖」といい、神を中心として「家庭的な四位基台」を造成しなければならないと言っているのあります。

ここで夫と妻は完全に一つにならなければなりません。夫と妻は、それを創造された神のなかにおいては、男性と女性が完全に一つになっていますから、そういう神を中心とすることによって始めて、夫と妻が一つになることができるのであります。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」と聖書にあるのです。

理想的な家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成していかなければならないのであります。

こうした家庭が拡大し、理想社会、人類一家族社会を形成していかなければならないのであり、そこに神が臨在され、それが神の理想、仏の理想であるという意味なのであります。