「仏」の願いとは何か

仏教が目標としているのは、全ての人々が成仏するということである。人間だけではなく、動植物、国土まで成仏しなければならないとされている。

ということは、そのような目標を持たれ、成仏しなければならないと考えておられる存在がおられるのである。そのような存在を仏教では「仏」と言っている。そのような目的をもった存在は、「法則」というようなものではなく、人格的な存在である。キリスト教で言う「神」と同様の存在である。

『法華経』には、主師親の三徳の経文というのがあります。(譬喩品第3)

今この三界は、みなこれ我が有なり(主)
その中の衆生は、ことごとく是れ吾が子なり(親)
しかも今この処は、もろもろの患難多し
ただ我一人のみ、よく救護をなす(師)
三界というのは、欲界・色界・無色界で、生類の住む世界全体のことであるという。「みなこれ我が有なり」とは、「仏」が、この三界の所有者、主であることをいっている。「ことごとく是れ吾が子なり」とは、「仏」が、三界の衆生をわが子とする親であることを意味しています。「我一人のみ、よく救護をなす」とは、衆生を救護することのできる先生は、ただ「仏」のみであるというのであります。

このように、「仏」とは、主・師・親という人格的内容をもった存在なのであります。人間にとって「仏」は主人であり、先生であり、父母なのであります。なかでも、「仏」が親であり、父母であるというのは、有り難い、驚くべき言葉であります。

『法華経』方便品第2というところに、「一切の衆をして 我が如く等しくして異ることなからしめんと欲しき」とありますが、悟りの内容が、等しきことを求めているというだけであるならば、先生と生徒の関係であって、親子の関係とは言えないのであります。

父母というものが子供に何を遺すかというと、「愛」と「生命」と「血統」であります。そして、父母の「愛」と「生命」と「血統」を相続する場が家庭というものなのであります。

「仏」というお方が父母であるために、その方の内容を相続するためには、「家庭」というものがどうしても必要なのであります。

それ故、仏教には、理想的家庭の成就を待ち望み、予示するという内容がなければならないのであります。この章では、それを『法華経』の授記の思想を通して調べていくのであります。